不食

秋山佳胤の不食という生き方の悩まなくていいにことについて読んでみた


うつ病によってか、わからないですが、40代になって、初めての一人暮らしをして、だんだん生きる気力を失っていき、食欲不振になってきました。菓子パンばかり食べるようになってしまい、精神内科の先生からは、「コンビニに売っているサラダがあるでしょ?野菜と摂らないといけませんね。」と、言われた当日から、コンビニに行って、カット野菜を買うようになりました。

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そして、スーパーマーケットでカット野菜を大量に買い込んで、朝、昼、夜と、カット野菜と鶏の胸肉を食べるようになりました。

 

毎食、ほとんど、同じです。食べる楽しみはありません。ただ、うつ病の薬を飲むために、朝、昼、夜の食事をカット野菜、鶏の胸肉を食べ続けているだけです。

 

栄養状態は偏っていると感じます。けれど、改善しようとはあまり思えません。生き続けていこうと言う気力がないからです。もう、このまま、孤独死してしまっても、仕方ないと思いながら生きています。

 

僕は、もうこの世で思い残したことは特にないので、いつ死んでしまっても仕方ないとは感じています。そういった精神状態の中、弁護士であり、医学博士である秋山 佳胤さんの「不食という生き方」の本を手にして読むようになりました。

 

2016年の本なので、新しい本ではないですが、なんとなく引き付けられて読んでしまっています。第四章の「悩まなくていい」と言うテーマについての感想を交えながら書いていきます。

 

うつは深刻な病気ではない

 

悩みが進むと、うつ的な状態になります。うつ的な状態は「うつ病」とひとくくりにされ、とても深刻な病気のような扱いを受けていますが、うつ的な状態は誰にでも起こります。
それは気持ちが沈んだ状態です。
心が本調子ではなく、体も重くなった状態がうつ的な状態ですが、これは「自分が本当にやりたいこととは違う」と感じるときに生じます。
私は魂という言葉をよく使いますが、魂が「これは違うよ」と自分に教えてくれている状態、つまり「歩きたかった道へと戻ろうよ」とサインを送ってくれている状態が、うつ的な状態です。
だから怖がる必要はないし、差別することもありません。

 

中略

 

自分本来のミッション(使命)に戻るため、うつ的な状態が起こるのだとすれば、そこには何らかの「気づき」が生まれているはずです。
一番大きいのは「理想像なんてどこにもない」という気づき。
その気づきは、こうあるべきという思いを手放すことで得られます。
本当にやりたいことを誰の目も気にせず、自由にやってください。

 

引用元:秋山 佳胤. 不食という生き方. 幻冬舎, 2016, 172P

 

僕は、うつ病です。障害者手帳2級取得しています。秋山 佳胤さんが書かれているように「それは気持ちが沈んだ状態です。」の通りです。

 

起きてから、気持ちが沈んだ状態。日中、気持ちが沈んだ状態。寝ている時、動悸がして、気持ちが沈んだ状態。と常に、気持ちが沈んだ状態が続いています。

 

うつ病の薬を朝、昼、夜と飲んでいます。飲んだら、少しマシになります。飲まないと「気持ちが沈んだ状態」がさらにひどくなるのが怖いから飲んでいます。

 

秋山 佳胤さんは、「本当にやりたいことを誰の目も気にせず、自由にやってください。」と書かれています。僕は、誰の目も気にして、不自由な生き方をしてきたように感じます。

 

母親と同居していた頃は、持ち家、住宅ローン共に僕の名義なのに、僕の部屋のクローゼットにも母親の服がかけられていたり、リビングや洗面台など、母親の私物で独占されていました。

 

 

僕は、

 

「共有スペースは二人の場所なんだから、自分の物は自分の部屋にやってよ!」

 

と、言った事はありますが、母親は

 

「だって、荷物が多いんだから、仕方ないでしょ!あんたのもの、そこにもあるでしょ!狭いんだから、仕方ないでしょ!」

 

みたいな嫌な感じで対応されてしまっていました。僕の名義の持ち家なのに、自由はありませんでした。僕の部屋のドアは常に開けっ放しにされていました。ノックもなく、勝手に部屋に入ってきていました。僕は

 

「僕の部屋なんだから、ノックくらいしてほしい!部屋のドアを閉めて欲しい!」

 

と何年も言い続けてきましたが、

 

「ドアを閉めていたら、いちいち開けるの面倒でしょ! なんでノックする必要あるの? どうせ、遊んでばかりいるんでしょ」

 

と、一方的に決めつけられて、まるで、子どもだからと、存在を否定されてばかりいました。ですから、仕事をしていたころ、持ち家に帰るのが、たまらなくイヤでした。

 

いつも、公園のベンチに座って、暗くなった空を眺めながら、ため息をつきながら、もう嫌だ・・・と、愚痴を一人で漏らしながら、夜空を見ながらよく、耽っていました。そして、ため息をつききると、持ち家に戻って、母親の愚痴を聞かされたり、母親にいろいろ小言を言われて、ストレスを溜め続けてきました。

 

 

父親は僕が小学生の時に離婚しました。自宅での父親の役割を全部、僕が引き受けて生きてきました。もう、疲れました。限界でした。

 

その上で、住宅ローン、銀行カードローン、クレジットカード、税金の滞納の借金があり、仕事をしていました。持ち家もストレス、仕事もストレス、借金もストレス、どうしようもありませんでした。そして、会社で働いている最中に、うつ病と診断されてしまい、休職期間を得たのちに、退職することになり、無職になり、無収入になり、自己破産することになってしまいました。

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うつ病は、僕にとっては、毎日「死」を意識させられる怖ろしい病気だと認識しています。秋山 佳胤さんは、「とても深刻な病気のような扱いを受けていますが、うつ的な状態は誰にでも起こります。」と書かれていますが、読んでいて、その意味が、今の状態の僕にはまだ理解したいけど、理解できる段階ではないように感じてしまいました。本当は、秋山 佳胤さんの書かれている通りかも知れません。でも、僕は、その秋山 佳胤さんが書かれている状態を通り過ぎてしまって重症になってしまっているようです。

 

歩くことで不調は解消される

 

事務所に相談に来られる方の中には、不調や病気の原因が「運動不足」によるものである方が割といらっしゃいます。まったく歩けないのならまだしも、普通に生活しているのに心身が不調だというケースでは、その多くが運動不足なのです。
とくに現代人は、あまり歩いていません。
ちょっとした距離を車で移動する、これは文明社会のもたらした象徴的な功罪ですが、乗り物による移動を減らし、自分の足で歩くことこそ、根本的な悩みにアクセスし、それを解消できる方法の一つです。
英文学者だった私の祖父は九十六歳で死去するまで仕事を続けましたが、九〇歳を越えても、毎日10キロメートルほど散歩していました。首や肩に慢性的な凝り、痛みを抱えている方、いませんか?
これは血流が詰まっている状態です。
首や肩を揉んで詰まりを解消しようとしますが、痛い部分を揉んでも全身のエネルギー循環が促されることは少なく、実際は歩くほうが効果的です。
歩くと足の裏が刺激されますが、足の裏は体の中で首や肩から最も遠い場所であり、その遠い場所を活用することで全身のエネルギー循環が活発化し、結果として首や肩の凝り、痛み、それを引き起こす詰まりが解消されます。

 

引用元:秋山 佳胤. 不食という生き方. 幻冬舎, 2016, 172P

 

僕は、毎日、ほとんど歩いていません。アパートに引きこもっています。食べ物を買いに行く時だけ歩いているだけです。

 

それ以外は、精神内科などの病院へ行くときだけ、歩いているだけです。また、首、肩、背中の痛みが何十年も痛くて慢性化しています。

 

秋山 佳胤さんは、「首や肩に慢性的な凝り、痛みを抱えている方、いませんか?これは血流が詰まっている状態です。」と書かれています。たしかに、なんだか血流が詰まっているような感覚はします。

 

健康診断でも、不整脈箇所がところどころ、あるような感じの結果でした。精神内科の先生からは、ストレッチするように言われています。リウマチ科の先生からは歩くように言われています。

 

先日、自転車でスリップして胸を強打してしまいました。いまだに激痛なのですが、「自転車に乗っていないで、歩きなさい」と言う神様からのサインかも知れないように感じました。貼るシップを毎日貼っても、神経痛の薬を毎日飲んでも、自転車で転んで胸を強く打ってしまったので、骨に異常があるのか、圧迫されている感じなのです。

 

ちょうど、翌日に胸椎箇所のMRIの検査があったので、その原因がわかるかも知れません、秋山 佳胤さんが「不調や病気の原因が「運動不足」によるものである方が割といらっしゃいます。」と書かれているように、

 

移動するときは、自転車を使わずに歩くように心がけたいと感じました。幸いにも運転免許証がないので、車に乗ることはないです。また、自転車は10年以上乗ってきたので、タイヤがすり減ってしまって、スリップしやすい状態かもしれません。

 

ところどころ、さび付いているので、もう乗らない方がいいのかも知れません。そうなると、必然的に歩くしかありません。歩くことで、血流がよくなるなら、首、肩、背中、胸の痛みが治るなら、歩く習慣を少しでも取り入れるようにしたいと感じました。

 

褒められたら否定せず、肯定する

 

前略

 

本来、人間はすべて対等な存在です。
だからコミュニケーションで対等にふるまいたいのですが、そこに何らかの上下関係を「感じてしまう」と、対等にふるまえなくなります。

 

中略

 

①あなたを褒めるような発言を否定せず、やんわりと肯定する
効果→肯定すると相手の視点をあなたが認めることになる
否定するとあなたより下にいる相手がさらに下がることになる

 

②褒められたら「ありがとうございます、おかげさまで」と切り返す
効果→「あなたのおかげでもありますよ」というメッセージになる

 

③相手も褒める
効果→上だと思っているあなたから褒められ、天にも昇る気持ちになる

 

嫉妬や不平不満のエネルギーは「波動共鳴の法則」が働き、ブーメランのように自分へと戻ります。くれぐれもお忘れなく。

 

引用元:秋山 佳胤. 不食という生き方. 幻冬舎, 2016, 172P

 

僕は褒められると、

 

「いえいえ、そんなことはありません。偶然です。」

 

とか、否定してしまう発言をしてしまいます。褒められて

 

「ありがとうございます」

 

と言えたことはありません。いつも、褒められて否定してきました。否定することがよくないことを知って、今まで生きてきて、褒めて下さった方々を否定して生きてきたことを考えると、ショックでした。

 

だから、今、自分の周りに誰もいないのかなって・・・、感じてしまいました。また、僕自身も人を褒めないですし、褒められても否定するし・・・。

 

秋山 佳胤さんは、「本来、人間はすべて対等な存在です。だからコミュニケーションで対等にふるまいたいのですが、そこに何らかの上下関係を「感じてしまう」と、対等にふるまえなくなります。」と、上下関係が対等な人間関係の対等な関係を邪魔しているように感じました。

 

年齢が上だからと言う理由だけで敬語を使ったりして、不自然だなって学生時代は感じたりしたこともありましたが、社会人になってからは、年齢が上の人には敬語を使うことが、違和感なく当たり前と感じてしまうようになって、秋山 佳胤さんが書かれている「本来、人間はすべて対等な存在です。」をすっかり忘れてしまっていると言うか、もう認識すらできなくなってしまっていました。本来の人間としての生き方が大きく欠落してしまった僕だと感じました。本来の人間の生き方、「本来、人間はすべて対等な存在」という事を意識して生きていけるように意識していきます。

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プロフィール

大福天喜

慢性的な借金体質です。1000万円以上の借金を背負い続けて、うつ病と診断されてしまいました。40代で自己破産してしまった体験談ブログを書いています。

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